フォト
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

« 「深見東州のぜんぶ私の歌、ぜんぶ私の話」2016年3月18日後半 ワールドメイトブログ | トップページ | 「深見東州のぜんぶ私の歌、ぜんぶ私の話」2016年4月1日前半 ワールドメイトブログ »

2016年3月26日 (土)

「深見東州のぜんぶ私の歌、ぜんぶ私の話」2016年3月25日 ワールドメイトブログ

「深見東州のぜんぶ私の歌、ぜんぶ私の話」
ラジオNIKKEI第1 毎週金曜日 23:30~24:00
提供:たちばな出版 みすず学苑
事業家、教育者、芸術家など多彩な顔を持つ深見東州氏が物事の森羅万象を語る新時代の“ラジオエッセイ”です。

2016年3月25日放送分、今回のテーマは「卒業」。今回は、前半、後半なく話が続きましたので一回分全てを書き取りました。


こんばんは、深見東州です。晩婚は、35歳以上のみなさん。毎週金曜日のこの時間は30分という短い時間ですが、私とあなたをつなぎながらお話しいたしましょう。

今週のテーマは「卒業」です。卒業式を終えて卒業旅行に行っている人も多いかもしれませんね。今でもそうです、運転免許を取る人もおるね、この3月。

テレビで、レギュラー出演が終ると卒業というふうになりまして。要するに、クビだって降ろされたわけで、終了したのが、宣り直しして、今回○○番組から卒業することになりまして。卒業した後どうするのって、ねえ。

さて皆さんには、どのような卒業の想い出があるんでしょうかねえ。いろんな卒業があるでしょうけどねえ。今日という日が終る時間まで、では皆さんおつき合いくださいませ。

(CM)

これ構成作家がね(笑)、書いてるん。東州さんは卒業の想い出はありますか。そんなの想い出ばっかりですよ。変わった風習がある卒業式が紹介されてますね。沖縄では卒業式にメリケン粉を卒業生に投げるとか、学校側は禁止して、中学生にメリケン粉は売りませんという、そういう風に商店街はなっているんで。

こんなのは、卒業式でなくって私なんかはしょっちゅうやってますけどねえ。メリケン粉を投げたり(笑)。

「メリケン粉を投げるんですか」(東海林さん)

お祭りでよくやりますけども。岐阜県の飛騨高山では、旧制中学からの伝統でね、テレビドラマになりましたね、白線流しって何かというと、制服の帽子の白線とセーラー服のネクタイを一本に結んで川に流すって。なかなかロマンティックな。

卒業ソングも時代時代に合わせて歌われる曲が変化して、卒業の時に歌う、昔は仰げば尊し。えー、ほんとうにお抹茶を飲むときに必ずお菓子がないと成り立たないんで、仰げば尊し和菓子(我が師)の恩といって(笑)。

御座候(ござそうろう)とか塩まんじゅうとかね、玉椿なんて姫路の名産にあって、きんつばでも、和菓子がないとお抹茶って美味しくないんで(笑)、ほんとうに和菓子のお陰でこんなに美味しいお茶会ができたというんで(笑)。仰げば尊し和菓子の恩って、いつも(笑)。

まあ、蛍の光、スコットランドの歌かなあれね。柏原芳恵のなんという歌だったかな、

「春なのに」(東海林さん)

春なのに~♪お別れですか♪
中島みゆきが作詞作曲してね、私もコンサートで歌いました。あるときは春なのにがずうっと出てね。それから森山直太朗のさくら~さくら~♪、お前おかまかというんですけどね(笑)。

一定以上になると、ハァーと裏声になっちゃってるんですけど、なかなか歌はいいですね。私もコンサートでよく歌います。森山直太朗ね。

贈る言葉もそうですけど、キャンドルライトの中の二人♪、長渕の乾杯も、あれは結婚式の時のなんだけども、卒業でもね、今これから人生の大きな大きな舞台に立つって、みんな泣きますね。卒業式の歌ってそういう風に変わっているんで。

まあ、そういうことで、卒業するのも時代時代に合わせて歌われる曲が変化して、どれもいいですね。

メールを紹介しましょう。
------------
ペンネーム:10代の学生

今年、高校に進学します。
中学校はクラスの中で浮いてしまって友達もできませんでした。
でも高校生になったら新しい自分になれるような気がします。
友達をつくるにはどうしたらいいですか。

------------

中学から高校になるのにこう聞くのも無理ないかなと思うんだけど、大人になった私からいわせれば、この質問自体が愚かなことでね。中学から高校に入って友達つくるよりも大事なことがある。

まず数学が極端に難しくなるから、三角関数、サイン、コサイン、タンジェントとか、対数とか、複素数とか。中学の連立2次方程式とかの中学の数学と高校の数学というのは圧倒的な違うところなんで、とにかく食らいついて、高校の数学をしっかり勉強して、振り落とされないということが、まず一つです。

いっぺんでそれで数学嫌いになったら、もう理科系には行けませんからね。理科系に行けるけどもあえて文系に行くというのはいいんだけども、(理科系に)行けないから(文系に)行くというのは残念なことです。

それから大学受験の英文法というのは、だいたい高一の英文法、仮定法過去だとかね、過去分詞だとか、そういうふうな文法の難しいところはだいたい高一の英文法で習うんですよ。

だから高校一年のときの英文法をしっかりやってなかったら、ほんとうに英語嫌いになっちゃう。もともと英語嫌いかもしれんけどね。

特にね、高一の英文法って極端に難しくなる。それを食らいついていったら、まあある程度の大学に入れるだけの英語力できるんだけど、高一の英文法でつまずいたら、わからない、わからない、わからないといって、中学1年の基礎英語から勉強し始めて高一の英文法をしっかり勉強すると、まあまあのところに行けるだけの実力つくんですけど。

高校1年生のときの数学、それから英語の落ちこぼれ、極端にレベルが違うから、それに振り落とされないように食らいついていけ、っていうのがまず高校に入って考えなきゃいかんこと。

もう一つ、友達なんですけどね、友達ってそんなに大事なものなのかと思うんですね。とにかく、友達の法則というのは、小学校の低学年とか、幼稚園のときは、ご近所に住んでる子がお友達ですよ。近所で、なんとかくん遊ぼうよとか、学校に行こうよとか。

その次は、同じクラスになって、クラスメイトがお友達ですよ。ところがだんだん、まあ高校ぐらいまでは、進学校に行った子というのと、まあまあの進学校に行った子と、普通校、商業、夜間の子というふうに分かれるんですけど。中学までは義務教育なんですけど、高校に行くとうんと進路が変わっていくので、そのお友達によってですね、うんと人生の方向性が違う。

いつもいうんですけど、灘校の法則というんで。1点違いで灘校に通った人、1点違いで落ちた人、もちろんこれは業界用語で、麻布・開成・武蔵でAKMというんですけど。

1点違いで麻布・開成・武蔵を落ちた人と、1点違いで通った人というのは、わずか1点の差だったんだけども、行って大きく違う。どう違うかっていうと、灘校とか開成とか友達が東大に行くもんだと思っているから。

君、何学部に行くの東大の。僕は理学部、僕は法学部だねとか、将来はああだねといって。東大は行くもんだと、みんなもそうだし、先輩も通っているし、先生も通るといってるし、東大というのは行くもんなんだと。

よっぽど変わった人がどこか違った大学に行くんで。滑り止めは少なくとも早慶、上智か、まあちょっとICUがいいっていうのが滑り止めなんだけどね。公立と国立の受験期が違うから2回ぐらい受けられるんだけども。

そういうもんだろと思うから、そういうもんだと思って、そのように勉強していくと、普通に受験してそのように通っていくと。

ところが1点違いで、開成とか灘校ではなく普通の県立高校に行った子はずうっと行ってて、君どこ行くのっていったら、東大なんていうのは天才が行くところだよ、そんなの行けるのといって、何人かいるけどね。東大に行くって、へえ君すごいねえって。

東大に行くのはすごいことなんだ。早慶、上智なんかすごいじゃないかってさ。だいたいMARCH、明治大学、青山、立教、中央、法政っていうのがMARCHで、学習院を入れて、GMARCHなんていうんですけどね。

早慶、上智、ICUなんてすごいじゃないか、行けるの君なんていって、よほど特別な人が行く、天才的な人が東大に行くと思うんで、友達もいうし、先輩もなかなか通らない、先生方も東大に、すごいね君、頑張らなきゃいかんね、大丈夫なのというかたちでいうと。

というので、なかなか東大通らないものだ。勉強していても、直前になって志望校落とすし、ワンランク、ツウランク下のところを受けて、友達もそうだし、先輩もそうだし、先生もそうなんで、そんなもんだなと思うから。

1点差で普通の都立いった子と、1点差で灘校に通ったのは1点しか違わないんだけども、3年間でこんなに水が開くわけですよ。

それだけ、友達っていうのは、友達の価値観、人生観、態度っていうのは大事なんで。だいたい高校生になったら、だれのいうことを聞くかというと、まず、先輩のいうことを聞く。その次に友達のいうことを聞くんです。その次に学校に先生とか、塾の先生のいうことを聞く。その次にお兄さんのいうことを聞きいて、お父さんのいうことを聞いて、最後にお母さんのいうことを聞く。一応、お母さんのいうことだから反対すると。

だから、お母さんとうちの息子が折り合いが良くなくって、というのを聞いたら、素晴らしいその子はと。それは本当に健全な素晴らしい男の子だねえといってさ、男の子で高校1年の終りぐらいから自我が目覚めてきますよ。

もの憂くね、友達のさんざめく、友達の輪の中に入っていけない自分というのは、自我の目覚めですよ。

だから、自我の目覚めで健全に育った男の子というのは、お母さんの持っている母親の感覚と自我の感覚と折り合うわけがないんですよ。お母さんとそんなに仲よくというのはマザコンですよ。

だから、お母さんというのは、なかなか、うちの息子と折り合いが良くなくって、それは素晴らしい健全で普通だというふうに、お母さんというのは理解できないんですね。

結局、先輩のいうことを聞いて、友達のいうことを聞いて、学校に先生、塾の先生のいうことを聞いて、お兄さんのいうことを聞きいて、お父さんのいうことを聞いて、最後にお母さんですから。

だからそれが、ちゃんとした高校の、ちゃんとした先輩だったら、一生の方向性とか進路なんかも先輩のいうことに一番影響を受けるんですよ。

そういう優秀な高校に行き、優秀な先輩に会って、より次元の高い、より目標の高い、素晴らしい方向性に、自分を導いてくれるような友達と会えるかどうなのかを考えないといけないので、フレンドができるかというのがそんな大事なことなのかですね。

社会に出たらどうなのか、大学出たら、やっぱりね、同じゼミとか同じサークル活動なんで、友達ができる法則、簡単ですよ。目標を持って苦楽を共にすると。

うちの予備校生でも、大学行こうと思って、合宿とか何かでね、食べ物一緒にしたり、合宿したり、ご飯食べたりしたら、みんな友達になりますよ。

一つの目標を持って、苦楽を共にしたらみんな友達になるんだ。友達をつくる方法はなんかサークル活動か、なんでもいいんで勉強でも、とにかく、目標を持って友達と苦楽を共にしたら、ラグビーでもサッカーでもみんな友達になりますよ。

そんな友達になるということが価値があるのかどうなのかですよ。戦争の戦友というのは、命をかけて戦って、死ぬ覚悟をしていくという目標のために苦楽を共にした戦友というのが、ほんとう刎頸(ふんけい)の友ですよね。お互い一緒に首切られまひょっていうぐらいな。

しかし、社会に出たらどうなるかっていうと、類は友を呼ぶで。やっぱり僕なんかは、高校の友達、大学の友達、全く話が合いませんね、価値観が。みんな普通で、平凡で、その時代の自分の能力とか才能とか人間性に合った友達しか出ないんで、類は友を呼ぶっていうんですけど。

最初の頃はご近所、同じクラス、同じ高校、同じクラブ活動、同じ方向性で、先輩だったのが、社会に出たらどうなるかと考えたら、その人の生き方と生活と価値観ですよ。

だけども、それなりの能力と実力と社会的背景があったものでないと、話が合わないですね。どっちかが足ひっぱったり、どっちかが頼ったりするんで。

お互いが頼り頼り合う友達っていうのは、それなりの能力、実力、教養、学歴。あるいは、別に全く違うものをお互い持っているとか、というそういう人じゃないと長続きしないです。時間の無駄でしょ。

だから結論として、友達探すとか友達を見つけるというよりも、己を磨けというんだ。高校に入り、大学の20代は友達を探すより己を磨けと。己を磨いていくプロセスの中で、目標を持って苦楽を共にしたら、それは良き友ですよ。

「朋あり遠方より来る、また楽しからずや 」というのは、これは論語の一番最初に出てくるんだけども、論語の一番最初のこの言葉が論語の全てで、最初は学習ですよ。

「学びて時にこれを習う、亦(また)これ説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずしてうらみず、亦君子ならずや」というんですけど。

学びて時にこれを習う、学習っていうのはここから出たんだけども、いったい何を学んで何を習得するのかっていうのは、論語の場合は儒教ですから、聖人に至るの道なんです。

「聖人は学んでなりますか」「可なり」

学んで聖人になる、要するに政治家であり、帝であり、そして人間として立派だと。徳のある君子になる三つを兼ね備えるにはどうしたらいいという学問ですよ。

これが学習なんです。だから、「古の学者は己のためにし、今の学者は人のためにする」というのは、人に見せびらかすために勉強しているのが今の学者、昔の学者というのは自分自身の修養のために学んでおった、これが学問なんだ。

そういう聖人に至るの道を学んでいるものが、はるばると、我が道を学ぶ同朋よと訪ねてきたのは、これほど嬉しいことはないよと。

そういう道を共に学ぶ人間、友との語らいがずうっと君子に至る学問、これがなによりの喜びだと。

そして最後、「人知らずしてうらみず、亦君子ならずや」こんなに学習し学び、聖人に至るの道を学ぶ教養と修養をしているこの私の徳や努力を世間は知ってくれないんだと。

「人知らずしてうらみず」

それを決してうらみに思いません、なぜかというと、世間に知ってもらうためにやっているんじゃないと。自分自身の修養のために、天の道のために、自分というものをいかに立派にするかという学問をしているので、人に見せびらかすためのもんじゃないんだと。

これだけ私が学びしているのを誰も人が知ってくれない。それをちっともうらみに思いませんよ。これが君子だね。「人知らずしてうらみず、亦君子ならずや」

というのが論語の一番最初ですよ。これが論語の全てですよ。だから、これが学問の本質ですよ。

そういう自分というものを確立し、自分というものを修養し、自分というものをいかに立派にしていくのかということが大人になったら大事なのであって。

それに合う「朋あり遠方より来る」という友達ができるので、友達を探し、友達ができるというのは、中学生がいう台詞ですよ。

高校にはいったら、私のいうことを聞いて、まともな立派な学問のある若者になれというのが、いいたいことですね。

だから、友達というものは、小っちゃいときは近所の子、クラスの子、学校の子なんだけども、大人になったら、その人の志すもの教養と知性と人間性と生き様にあった人しかお友達になれないんで。

小っちゃいときの幼友達だといっても、なかなか時間使って会おうという気にならないです。

友達のために生きようとか、友達をつくろうと、ちょっとしたことでケンカになりますよ。「小人は同じて和せず、君子は和して同ぜず」です。

そういう学問と教養のない人間は、同じて和せず、一緒になんでも徒党を組むんだけど、すぐケンカしていると。

君子は和して同ぜず、いつも意見の違う人間とも仲よくするんだけども、自分の意見は自分の意見、あんたの意見はあんたの意見で、付和雷同しないと。

付和雷同せずに、反対は反対、賛成できないことはできないし、意見はいうけどもケンカせずに仲よくしていると。これが君子の交わりですよ。

小学校や中学校の時に、そういう学問がある人間だったらば、高校に入ってから、どうしたら友達ができるでしょうかというような、こういうあさはか、赤坂見附みたいな、浅香光代みたいな、浅香光代はいい人やけどもね。

こういう質問が私に来たら、こういうのバチーンとね、大人の正しい見解から答えてあげるという、10代の学生にはね。高校に入ったら大人の始まりですから。

三島由紀夫っていうのは、17歳で花ざかりの森というのを書いて、そこからデビューで、石川遼は15歳でレギュラーのトーナメントはいった、プロのゴルファーですから。

もう高校生から大人の始まりなんですよ。絵でも書でも文学でもスポーツでも、みな立派な大人の始まりとしてね、ものの考え方もですよ、大人の始まりのような考え方を持って欲しいなこの10代の学生は。というのが私の考え方ですね。

(CM)

今夜の放送いかがでしたでしょうかね。

15歳、16歳になろうなんていう子だったら、江戸時代とか明治の初めだったら、何というんだお前は、喝、といわれますけど。

いい友達ができればいいな、なんてことを答えるような、そういうディスクジョッキーといおうか、ビールのジョッキ飲んでいるといおうか、そういう風なものじゃないですから私は。

基礎学力と、それだけの理解力を持っている子ならば、もうちょっと違うことをきくなあ。気持ちは分かるけども、気持ちは分かるけどもね。

こういうものの考え方があるんだよということを、15、16の子に知って欲しいよね。

今夜の放送いかがでしたでしょうかね。



いつも応援していただきありがとうございます。 ブログランキングボタンのクリックをお願いいたします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ「にほんブログ村」『ワールドメイト』カテゴリ
「人気ブログランキング」


« 「深見東州のぜんぶ私の歌、ぜんぶ私の話」2016年3月18日後半 ワールドメイトブログ | トップページ | 「深見東州のぜんぶ私の歌、ぜんぶ私の話」2016年4月1日前半 ワールドメイトブログ »

深見東州のぜんぶ私の歌、ぜんぶ私の話」カテゴリの記事

seoparts

    • SEOブログパーツ
無料ブログはココログ

ブログ村